のり子はまたもやプイと横を向いた。その時、電話のベルが鳴るとのり子が応対した―
「大沢くん。鈴木商事の石岡部長さんからよ」
のり子は憮然(ぶぜん)として受話器を渡した。
「どうしました?」
「二時過ぎに例の書類を取りに来るそうです」
「そうですか」
「おまちどうさまでした」
こずえは麦茶を銘々に配った。
「ああ、冷たい!」
大沢はのどが渇いていたのか美味そうに一息で飲んだ。その間に、加納は分厚い本に目を通していた。
「先生、何の本ですか?」
「これかい・・・さっき図書館から借りてきたのだよ」
「それで分かりました。今日はめずらしく出社が遅かったのが」
「ああ、市役所へ行った帰りに何か参考になるものがないかと思ってね」
「何という本ですか?」
富田は麦茶のグラスを置くなり訊ねた。
「見聞諸家紋という本で、別名が東山殿御紋帳とも呼ばれ室町幕府八代将軍足利義政の頃に将軍家以下二百六十に及ぶ家紋を収録したものです」
「家紋も随分ありますね」
富田はさっと目を通すと、うんざりしたように机の上に置いた。
「何か参考になるものはないですかね・・・」
大沢はその本を手に取りパラパラとめくっていたが突然、手を止めると押し黙ったままでいた。
「どうかしたの?」
のり子の言葉で大沢にみんなの目が向けられた。
「はい。最初は目の錯覚かと思ったのですが、やっぱりそうです」
「どれ、見せて」
のり子は大沢からむしりとる様に手許へ引き寄せた。
「葵の紋がたくさんあるわね、これがどうしたっていうの?」
「のり子さん、ようく見て下さいよ」
「初代徳川家康から歴代将軍の葵の紋じゃない」
「だから・・・分かりませんか?」
大沢の苛立(いらだ)った声にみんなも本をのぞき込んだ。
「あっ! 逆さ葵ですね」
「そうでしょう」
大沢は得意気にこずえに返した。
「どこ? どこなの、こずえちゃん」
のり子はあせるようにして訊いた。みんなも必死に探そうと目を凝らした。
「え~と、六代将軍家宣(いえのぶ)の紋を見てください」
「本当だわ、逆さ葵よ・・・先生そうですよね?」
「間違いなく逆さ葵だ。ところで、字が小さくて読めないが何て書いてあるんだい?」
「はい」
そう言うと、のり子は説明文を読み始めた―
―初代将軍家康、二代将軍秀忠、三代将軍家光までが33葉の葵巴(あおいともえ)で茎のみが変化する。つまり、最初は33葉の細い茎で黒色、次に白色と変化する。四代将軍家綱は最初が19葉で葉の配列が先代と異なる。後に19葉から頂点部分に4葉が追加されて23葉となる。
五代将軍綱吉は最初27葉で茎太くなるが後に23葉に減葉される。六代将軍家宣(いえのぶ)は最初29葉で、後に27葉となる・・・そこまで読むとのり子は質問した―
「六代将軍家宣(いえのぶ)の葵の紋は、最初29葉でこの時に逆さ葵となっていて、後に27葉になったときには逆さ葵でなく通常の葵の紋になっていますが、どうしてなのでしょう?」
「そうね? 歴代の将軍も二回くらいは葵の紋のデザインを多少は変えていますが逆さ葵の紋というのは家宣だけというのが分かりません」
こずえものり子に同意するように首をかしげた。
「これは、やっぱり家宣を徹底的に調べあげないとだめだな」
「大沢さん、家宣をまるで犯人あつかいですね」
「へへへ・・・」
こずえの言葉に大沢は照れ笑いをしながら頭をかいた。
「そうだ! 富田さん、家宣について何か知っていることありませんか?」
「家宣ですか」
富田は、まるで待ってましたとばかりに微笑むと語り始めた―
―徳川(とくがわ)家宣(いえのぶ)は寛文二年(一六六二)四月二十五日、徳川(とくかわ)綱重(つなしげ)の長男として江戸の根津で生まれる。父の綱重が正室(せいしつ)を娶(めと)る直前の十九歳のときに身分の低い二十六歳の女中に産ませた子であったため世間をはばかり家臣の新見正信に預けられ、新見左近と名乗ったが、九歳のとき、子に恵まれなかった綱重の世継(よつ)ぎとして呼び戻された。
元服(げんぷく)して綱豊と名乗ったが延宝六年(一六七八)父の死後に家督(かとく)を継承(けいしょう)し、祖母の順性院に四代将軍家綱の次の五代将軍になるため育てられた。しかし、家綱に男子がいなかったことから綱重の弟にあたる徳川綱吉と共に五代将軍の有力候補であったが、堀田正俊が、家光に血が近いことを理由に将軍に推したため綱豊は五代将軍になれなかった。
また、綱吉(つなよし)にも世継ぎがいなかったため綱吉(つなよし)の娘婿(むすめむこ)である徳川綱教も候補だったが綱教の死後に将軍の世継ぎとして家宣と名を改め江戸城西の丸に入ったのが四十三歳のときだった。宝永六年(一七〇九)に綱吉が亡くなり四十八歳で六代将軍に就任すると悪評高い生類(しょうるい)憐(あわれ)みの令(れい)や酒税を廃止したため庶民からの人気が高まった。
次に、柳沢吉保を免職して間部詮房(まなべあきふさ)や新井白石を登用して文治政治を推し進め財政改革を試みたが三年後の正徳二年(一七一二)十月十四日に死去、後を子の徳川家継が継いだ。
そこまで話すと富田は息を大きく吐いた。
「さすが歴史の先生ですね、驚きました」
こずえは感心したのか顔をほころばせながら言った。それとは逆に大沢はうかない顔をしていた。
徳川家紋「逆さ葵の謎」 6
つづく