10月14日(日)の鉄道の日とJR北海道20周年を記念したトークセッション「幌内鉄道のあった町」が、8日(月・祝)14:00から、小樽市総合博物館(手宮1)しづかホールで行われた。
北海道で初めて開通した「幌内鉄道」は、手宮・小樽と幌内の街づくりに大きな影響を与えた。今も当時の遺産が残され、それを利用した街づくりが行われている。
トークセッションは、1887(明治20)年にアメリカから輸入され、この幌内鉄道で活躍したSL「しづか号」の前で行われた。札幌国際大学観光学部の吉岡宏高准教授、北海道職業能力開発大学校の駒木定正助教授、観光カリスマの小川原格氏、小樽市総合博物館の土屋周三館長をパネリストに迎え、幌内鉄道のあった町をテーマに、鉄道に関する遺産や、それを活かした街づくりについて、ディスカッションが行われた。
吉岡准教授は、「小樽にも色々な思いがあるが、幌内は小樽以上に朽ちてしまった」と、学生時代の思い出を含めて、出身地の幌内について語った。
小川原氏は、「斜陽の町・小樽の運河が整備され、観光で賑わいを取り戻した。運河と鉄道を使った雪あかりの路が出来上がり、小樽弁であづましい(落ち着く)イベントになり、小樽人のコミュニティが広がるだけでなく、色々な人が訪れてくれるようになった」と、鉄道施設の活用から、小樽観光の賑わいを創り出したことに触れた。
駒木助教授は、レンガの鉄道施設を作り出した超エリート、松本荘一郎と平井晴二郎について、「日本銀行小樽支店・東京駅を設計したことで知られる辰野金吾が、明治17年に東大教授になった時に15円から100円の給料に上がったが、当時、平井晴二郎は170円、松本荘一郎は250円も貰っていた。当時のスーパースターは、この小樽・札幌にいた」と熱く語った。
土屋館長は、「北海道は、日本にないアメリカ式で開拓された。とってもユニークな開発がされている。国の事業のトッププロジェクトであった、輸入したSLに“しづか”という女性の名前をつけたことがアメリカ式に開拓された証拠。障子と襖の世界だった小樽・手宮に、アメリカ村が出来、どう感じていたのか、この視点から見ても楽しい」と、会場に来ていた鉄道マニアなど参加者40名は、4氏の話に熱心に耳を傾けていた。