藤間扇玉会主×山田勝磨元市長 “潮まつりを語る”

 

 

 2月28日(金)に開幕してから連日多くの来場者で賑わった「写真展 藤間扇玉のあゆみ」の最終日3月9日(日)に第3弾関連事業が行われ、山田勝磨元小樽市長と藤間扇玉会主が、ともに第1回目から携わった「おたる潮まつり」について語り合い、藤間扇久華氏(藤森五月)が進行役を務めた。

 

 会場は、同まつり実行委員長だった中野豊氏をはじめ、関係者やまつり好きなど約100名の来場者で賑わった。扇玉氏は、第1回目の1967(昭和42)年から指導・普及・協力を続け、山田氏も同様だった。運営に携わる人だけが知る潮まつりの歴史やエピソードを語り、人々の努力のお陰でまつりが開催され続けているのだと改めて知る機会となった。

 

 山田氏は、1939(昭和14)年に小樽に生れ、1960(昭和35)年に市役所に入庁。社会教育部長・学校教育部長・経済部長・総務部長・収入役などを歴任し、1967(昭和42)年第1回目から潮まつり実行委員会事務局で潮まつりの運営に務めた。多忙な中、独学で踊りマスターし、潮まつり15回目(昭和56年)には、市役所梯団のリーダーとなり、当時の人気アニメ・天才バカボンの着ぐるみやトラックでバンド演奏など、さらにまつりを盛り上げた。

 

 市長を務めた1999(平成11)年〜2010(平成22)年の3期12年では、潮まつりは1日も休むことなく皆勤賞だったという。潮の原点として、海への感謝・小樽の町の発展の2つをコンセプトにしたという。

 

 数々のエピソードの中から、当時の若い経済界の人々の議論は喧嘩が始まりそうなほど勢いがあり、若かった山田氏は、潮音頭の普及をやれと言われ、各町内会の会場設営を行い、場所が決まり次第、扇玉先生が派遣された。

 

 「潮まつりには雨がつきもの」というジンクスがあり、第1回目も大雨に。埋め立てた第3ふ頭で開催したため、ねりこみが通る道はドロドロ。何とか解決しようと、当時の会場責任者の藤森茂男さんに気合を入れられ、必死で砂を撒いたことは一生の思い出だという。

 

 様々な流派の先輩師匠がいる中で、一番若い28歳の扇玉氏が第1回目から潮踊りの振付を担当。ピリピリしたムードの中、やり辛さもあったが、みんなが分かるように山や波の振付を統一したという。

 

 ねりこみ出場の企業や学校50団体ほどに指導に出かけた。写真展のチラシにある林屋製茶では、茶摘みの衣装で振付も変えて踊る会社の始まりで、会社の宣伝にもなったという。

 

 山田氏は、「人口は減るし子どもも少なくなる。小中学生に踊りを教え、それが思い出になり、大人になって小樽を離れても、小樽に戻ってまつりを盛り上げてもらいたい。潮まつりが元気になる」と期待した。

 

 扇玉氏は、「これからも皆さんの大好きな町小樽、大好きな人々が幸せになるためには、皆さんひとりひとりが潮に参加してくださることが町を元気にさせる」と、参加を呼びかけた。

 

 五月氏は、「40数年もの間、潮まつりに関わった山田氏のお話は、潮まつりのエネルギーを伝え、大切な町の記録になるとも感じた。扇玉氏も遠くなった記憶が蘇ったと思う。まつりの生き字引、今後も潮まつりを守ってください」と締めくくった。

 

 最後は、小樽潮太鼓保存会の潮太鼓の迫力ある打演が響いた会場で、藤間流扇玉会メンバーと来場者が、潮音頭と潮踊り唄をぐるぐると練り踊り、紅白の餅まきも行われ祝ムードも高まった。

 

 たらつり節愛好会小樽代表の杉本真沙彌さんは、「山田元市長の話は情景が目の前に浮かぶようなリアルな話が貴重で、当時の熱気も感じられた。潮太鼓もすごい席で聴けて嬉しかった。潮踊りは、扇玉先生が笑顔で迎えてくれる前を目を合わせながら踊り、この上ない喜びを感じた。次の潮まつりにも気合が入る。最初の勢いには負けてられない」と、感動さめやらぬ様子だった。

 

 ◎市民ギャラリー「北海道文化賞受賞・師籍60周年記念写真展藤間扇玉のあゆみ」(外部)

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