藤間扇玉写真展関連事業“たらつり節”に157人

 

 

 市立小樽美術館(色内1・苫名真館長)と藤間流扇玉会(藤間扇玉会主)主催で開催中の「写真展 藤間扇玉のあゆみ」の関連事業第2弾、鼎談「古平町民謡 たらつり節のこと」が3月2日(日)14:00から市民ギャラリーで開かれ、小樽市民をはじめ古平町民や札幌古平会など、たらつり節に興味を持つ157人が集まった。

 

 扇玉氏の長い舞踊人生を振り返った時に、古平町の依頼でたらつり節の振付を行ったのは忘れがたいことだと、本日のイベントに繋がった。

 

 出席者は、扇玉氏とたらつり節踊り保存会・高橋寿美代表と本間れい子氏、たらつり節愛好会小樽・杉本真沙彌代表。司会は藤間扇久華氏。

 

 杉本代表からたらつり節について説明があった。

 

 1958(昭和33)年に、古平町の民謡としてたら漁が盛んだったことから、漁の辛さを歌った「たらつり口説節」が作られ、作者不詳のまま歌い継がれていた。

 

 唄ができてから23年も経った1981(昭和56)年、大島豊吉氏と田村榮蔵氏が作詞・作曲し、夜遅くまで苦労して半月で完成させた唄であることを、地元の民謡会・小竹博白章会会長夫妻が突き止め、寺沢英二氏によって編曲され、現在の「たらつり節」となった。

 

 説明を行った杉本代表の母方の祖父が曲を作った大島氏で、田村氏は父方の祖父の従兄妹と、どちらも血縁関係にある。

 

 たらつり節は5番まであり、神威の岬や美国、丸山岬、オタモイ様などの地名も織り込まれ、言葉も分かりやすく歌いやすい歌詞になったが、たら漁を励まし辛さを吹き飛ばす気合を込めた掛け声の部分は難しい。

 

 1981(昭和56)年、扇玉氏に古平町からたらつり節に振付してほしいとの依頼があり、古平町に3か月通って振付を指導している。

 

 杉本代表は、「おじいちゃんが作った唄なのに歌えないのはどうなんだろうと思い、曲を覚えて鼻歌程度歌えたらとYouTubeを検索したところ、歌詞には良く知った地名が出てきて親近感が湧き、船に乗りながらその景色を見ている気持ちになった。一番好きなのは“わしの願いを 叶うたならば”のフレーズがぐっとくる」と話していた。

 

 本間氏は、「小竹さん夫婦は古平のために一生懸命で、振付は扇玉先生がやってくれた。船が着くと仕事があったので何回も練習できなかったが踊りを覚えた。先生は綺麗で見惚れてしまった」と、当時を懐かしんだ。

 

 扇玉氏は、「たらつり節は古平町からの依頼で振付をした。古平の心の叫びを感じたことが印象深い。陸上では女性が仕事、海は男性の仕事。船が転覆してしまい亡くなった人もいたと聞いた時、普通の歌ではない、古平の心の叫びが今日まで歌い継がれてきた証。子どもたちは学芸会でも踊ってくれた。海のことは知らない私どもは、命をかけて良い食材を提供してくれた。海の物を大切にしようと思った」と語った。

 

 高橋代表は、「小学校に指導に行ったり、10年ほど前には、都道府県の民謡大会で北海道代表になり熱海に行った。1,000人の観客がいて、飛騨高山の人が見てただけでは分からないと古平に来て、そこでも指導し今でも交流が続いている。町内の歌唱大会でも踊り、東京古平会、札幌古平会との交流もある」と、どのように町民に伝わったのかを話した。出演者は打ち解けた会話が続き、会場を和ませた。

 

 三味線と尺八の生演奏に歌と囃子に合わせ、たらつり節踊り保存会7名とたらつり節愛好会小樽4名が踊り、1981(昭和56)年に扇玉氏が指導した頃、使用・録音された曲で藤間流扇玉会17名が踊り、3曲目の最後は生演奏と生歌で全員が踊り、観客を魅了した。

 

 小樽在住の男性は、「たらつり節を見てみないと分からないと来場して良かった。小樽と古平は近いので繋がりが深い。とても面白かった。美術館では作品を展示するだけではなく、関連事業の実施は良かった」と満足していた。

 

 3月9日(日)写真展最終日の13:00~14:00は、関連事業第3弾ギャラリートーク「潮まつりのこと」を、藤間扇玉氏と山田勝磨氏が対談する。聞き手は藤森五月氏。14:00~15:30には、潮太鼓の打演で来場者と潮音頭を踊る。

 

 ◎市民ギャラリー「北海道文化賞受賞・師籍60周年記念写真展藤間扇玉のあゆみ」(外部)

 ◎関連記事