小林多喜二没後91年 小樽で6月の墓前祭

 小林多喜二祭実行委員会では、没後91年となる2024(令和6)年6月1日(土)・2日(日)の2日にかけ、多喜二祭を開催。

 

 小樽市民センター(色内2)マリンホールで、1日(土)14:00から市民による構成劇「2月20日―小林多喜二のお母さんへ」を上演。15:00からは、高野宏康氏による「北海道の心臓と民の力~多喜二の見た小樽」記念講演会の2本立てで、記念のつどいを実施した。

 

 2日(日)は11:00から、多喜二が眠る奥沢墓地(奥沢5)で墓前祭を行った。コロナ前までは多喜二の命日2月20日に拘り、真冬に墓前祭を実施してきたが、関係者の高齢化等により、墓石に刻まれた「昭和五年六月二日 小林多喜二建之」に合わせ、初めて多喜二が墓を建てた新緑の季節6月に開催し、33名が集まった。

 

 多喜二は、1930(昭和5)年に工場細胞を書き上げた後上京。まもなく原稿料が手に入ると、かねてから亡くなった多喜二の父・末松さんの墓を建てたいと希望していてた母セキさんに、東京から当時としては大金だった500円を送金し、供養のため墓を建てた。墓石の後ろに刻まれた建立日から94年前の6月2日に建てられた。

 

 隣の墓には小林ケイゾウ氏他3名の名前が書かれ、1957(昭和32)年に建てられている。ケイジ氏は、小樽にいた伯父・小林ケイジ氏(末松の兄・小樽で製パン業)の孫

 

 同会共同代表の髙橋純小樽商科大学名誉教授は、「記念の集いは48回目で、墓前祭は1988(昭和63)年に小樽多喜二祭の1部の形で、寺井さんが主導し多喜二を偲ぶ会を行い、ずっと続いている。2月20日の雪の最中で行われていたが、集う意思を持つ人々の高齢化などが原因で6月2日になり、多喜二が願った社会変革への意思を引き継ぐ者として、年に1度多喜二の墓前に訪れ、意思を継ごうと復活した。

 

 予想を遥かに超える沢山の方に来てもらい嬉しく思う。多喜二の意を継ぐ者として、思いを伝えつつ、献花してもらいたい」と挨拶した。

 

 治安維持法が1925(大正14)年に交付され、前年に小樽高商(現小樽商大)を卒業した多喜二は、拓殖銀行に勤務し、上京後日本共産党に入党。短い期間だったが、夜を徹して小説を書き活動に参加し、死ぬ気で命がけで文学に打ち込み、新しい社会を目指し活動に邁進していたが、1933(昭和8)年に警察に逮捕され虐殺された治安維持法の犠牲者でもある。

 

 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟北海道本部・横山事務局長は、「治安維持法ができて100年、賠償要求同盟ができて50年、締めの年。国はひどい歴史の事実を後世に伝え反省し、再び戦争と暗黒政治は許さない。命ある限り力を尽くしたい」と訴えた。

 

 全国各地から多くのメッセージが届き、参加者1人ずつ赤いカーネーションを献花し、多喜二を偲んだ。

 

 ほぼ毎回参加している北田さんは、「以前から多喜二の生き方に感動している。戦争は許さない命がけで戦いぬいた。簡単なことではない。娘がイスラエルに住んでいることもあり、なおさら心に強く思う」と話した。

 

 14:00からは、多喜二の作品や運動・闘いの舞台を、ガイドマップのコースをもとに徒歩で巡る「多喜二と小樽」オリエンテーリングが実施された。

 

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