2月20日(水)は、日本プロレタリア文学代表作家・小林多喜二の86回目の命日。例年より暖かく穏かな日となった多喜二が眠る奥沢墓地で、11:00から墓前祭が行われ、74名が訪れ、赤いカーネーションを手向けた。
多喜二は秋田生まれの小樽育ち。小樽高商(現小樽商科大学)で学び、文芸雑誌に数多くの作品を投稿。文壇デビューを果たし、蟹工船などの名作を生んだ。
戦争に反対し、平和を求めた多喜二は、1933(昭和8)年2月20日に、当時の治安維持法違反容疑で特高警察に逮捕され虐殺された。29歳の若さだった。
遠くは熊本県久留米市、愛知県名古屋市などから、当時の多喜二が生きた時代に想いを馳せ、毎年、命日に多くの人が訪れている。
小樽多喜二祭実行委員会を2019(平成31)年1月に発足させ、寺井勝夫氏・荻野富士夫氏・琴坂禎子氏・倉田稔氏・中井秀紀氏の5名を共同代表としてスタート。
長年、午後から行っていた墓前祭を午前中に変更。記念のつどいまでの時間に余裕を持たせた。JR小樽駅前から無料バスを運行。ほぼ満席状態で墓地へ向かった。
前日に、同委員会が墓前まで一本道をつくり、滑らないように注意をしながら1列に進んだ。墓前祭が始まるまでの時間、多喜二に纏わるエピソードが紹介された。
1930(昭和5)年6月2日に建立されたこの墓は、母セキさんが、かねがね墓を建てたいと願っていた思いに応え、最初に得た原稿料500円を母に贈って建てたもの。墓には「小林多喜二これを建てる」と刻まれている。
多喜二が好んだベートーベンのヴァイオリン協奏曲が流れる中、11:00から没後86年小樽多喜二祭・墓前祭が執り行われた。
同実行委員会・荻野富士夫共同代表は、挨拶の中で、「多喜二が殺され、3月15日に労農葬の開催が取り組まれ、ひどい弾圧の下で、多くの検束者が出たことは知られているが、主催者のひとり労農弁護士団の弁護士・布施辰治氏、同・久保田貞三郎氏も捕まっている。
最近、警察でのその供述書を見ることができた。虐殺で駆けつけた東京には、母と姉のチマさんとその夫、弟の三吾さんなど遺族が集まり相談。虐殺した特高警察を告発しようと弁護士に依頼したことを知った。
多喜二の虐殺は闇の中で行われ、心臓麻痺とうやむやにされてしまい、遺族の思いは叶わなかったが、家族の意思で告発しようとしていたことが初めて分かった。特高警察を告発しようとしたことは、もっと知られても良い」と、最近、知った新たな情報を明かした。
引き続き、治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟北海道本部・宮田汎会長や、日本共産党北海道委員会・畠山和也氏が挨拶。次に、荻野共同代表から赤いカーネーションを献花し、参加者と続いた。降雪もなく、この時期としては穏かな空の下で、無事に墓前祭を終えた。
15:00からは、小樽経済センター(稲穂)7階ホールで記念のつどいが開かれ、約350名が出席。フランク・パブロフ原作の「茶色の朝」を、大地巌氏が脚色・演出し市民劇で上演。函館を拠点に活動する講談師:荒到夢形氏による講談「蟹工船」を初開催。
記念講演として、「憲法9条・自衛隊・安保法制ー日本を再び戦争する国にしてはならない」と題して、弁護士の佐藤博文氏が自衛隊の現状等を語った。
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