小樽雪あかりの路最終日の2月12日(日)14:00から、龍宮神社併設いなほ記念会館(稲穂3)1階武揚殿で、「榎本武揚のシベリア横断旅行」と題して、榎本武揚曾孫の榎本隆充氏(82)を講師に迎え、日本の変革期に誕生した万能の天才・榎本武揚について講演会を実施し、200名超える榎本ファンが集まった。
榎本武揚は、蝦夷独立国を目指し、薩長中心の新政府と対峙したが、五稜郭(函館)の戦いで敗れた。1873(明治6)年、「小樽が天然の良港であり、北海道の発展に大きく寄与する」とみて、北垣国道と共同で、今の稲穂町と富岡町の土地20万坪を明治政府から購入。土地管理会社「北辰社」を立ち上げ、現在の中心商店街の原形を築き、小樽発展の礎を作った。
1876(明治9)年に、移民の安寧を図るため「北海鎮護」と献願し、社を建立。2009 (平成21)年には、神社境内に榎本武揚の銅像が建立され、自筆の書や肖像画が飾られ、同神社と深い関わりを持つ。
武揚の曾孫として隆充氏は東京に生まれ、東京農業大学客員教授で、各地で歴史研究等の講師として積極的に活動。高齢のため、今回が最後の講演になると、武揚の小樽との関わりや横断旅行について淡々と語った。
会場は、身動きもできないほど混雑し、演壇の左右には、初公開の武揚直筆の屏風を広げ、隆充氏所蔵の貴重な品々も展示し、来場者の注目を集めた。
武揚は、樺太千島交換条約のため、初代ロシア公使としてロシア・ペテルブルクに赴任した。家族に宛てた手紙からは、オランダ留学の経験がある武揚は、オランダ語・フランス語・英語など、優れた語学力を持ち皇帝からも気に入られ、皇室のパーティーに呼ばれたと記されている。海軍中将らを通じて、日本とロシアが太いパイプで繋がれ親密な関係を結び、良い影響をもたらしたことについて、隆充氏は、「国際法に明るく会った人に信頼感を与える魅力があったと思われる」と推測。激しい外交交渉を成功にこぎつけた武揚の評価は大変高かったという。
公使の職を終えた1878(明治11)年7月、帰国するために古馬車で2ヶ月間費やし、ペテルブルグからウラジオストクまで、1万3,000kmにも及ぶシベリア横断旅行を行った。なぜ、シベリア横断を選んだのかは、好奇心と北海道開発のため同地の寒冷地の地形や気候・風土・動植物を、自分の目で確かめたかったからだという。
横断旅行の詳細を表した「シベリア日記」の一部からユーモラスな文章も紹介。講演の最後は、武揚がオランダの友人に贈った「冒険は最良の師である」という言葉について触れ、「常に新しいことに挑戦することにより、いつまでも瑞々しく生きていけることを意味し、私自身の言葉にしたい」と締めくくった。
その後、同会場で、隆充氏を囲み交流会が開かれた。
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