小樽みなとライオンズクラブと小樽海上保安部による「小樽港の歴史・文化、灯台に関する講演会」が、11月3日(水)13:30~15:00、小樽地方合同庁舎(港町5)で開催された。
11月1日の灯台記念日と同クラブ創立50周年に伴い、港と灯台にスポットを当てた。。同クラブ会員理事で小樽船用品株式会社の北村猪之助社長が「小樽港よもやま話」、同部・石川武市次長が「北海道の開拓と灯台」と題し講演した。観光関係者や一般市民など約80人が聴講に訪れた。
北村社長は、「運河のところに住んで70年。港の生成と運河を見てきた。子供の時から運河を見てきて、岸を見たらカニがどこにいるのか、小魚が来たなと思っていた。
小樽の防波堤には、見る機会はないが、埋められている言葉がある。
産みの親の廣井勇が北側の手宮から防波堤を造った。10年かけて造る予定だったが日露戦争もあり、明治30年から始めて明治41年に一期工事が終わった。いつまでも小樽の港を守ってもらいたいとの思いを込めた『與天無極』との言葉を残した。小樽開発建設部の築港の港湾事務所で保管されている。
育ての親の伊藤長右衛門は、廣井勇から習ったことを忠実に実行し南防波堤を造った。防波堤に立てた灯台の光が遠くまで届くようにと願い『光波万里』との言葉を残し、今でも刻まれている。
そして、安達興五郎市長が、2人の功績を讃え、『功績万年』との言葉を贈った。
小樽には色々な言葉が残っている。クラーク博士の『Boys! Be Ambitious (少年よ、大志を抱け)』との言葉が有名になってしまっているが、鉄道施設を造る時に米国人技師ジョセフ・クロフォードが演説した『Shoulder to Shoulder to Open a Way (肩と肩を寄せ合ってこの道を開こう)』の言葉は全然広がらない。
子供の頃、この場所(小樽地方合同庁舎)は海だった。海老や魚釣りをした。第3ふ頭はなくケーソンが埋まってプールのようだった。小樽の港で働いた人は 2,000人で、艀で物を積む人、船を整備する人、船員などたくさんの人がいた。運河の形は残ったが、艀が低く船が通れないので、生きる運河にはならない。再生することがあれば生きたものになれば嬉しい。
駅前通りから下がり、色内十字街の角のところにカフェがあり、マダムは美人だった。子供の頃遊んでいたときに、ガキ大将が、マダムに会いに行くと言ってカフェに行ったが、今日もいねえなと笑って話していた。昼に行っても化粧をしていないので、子供にはわかるはずがなかった。
小樽にはお餅屋が多かった。忙しいと食べる暇がなく、おにぎりでは作業中につぶれてしまうので、餅を持ち歩いていた。餅屋は競っていたので美味しい餅屋が出来た。港も一つの文化だ。励みになった床屋もあった。その床屋で切ってもらったら偉くなった証拠になった。励みになった店もあった。今は誰でもいけるようになり、味も素っ気も無い。
ぜひ港に興味、関心をもって盛り上げてくれたら嬉しい。小樽の防波堤にこんなに人の思いがあるということを知ってもらって興味をもってもらいたい。防波堤が出来たのは港が壊れないようにするためで、ぜひ活用出来る港にしたい」と語った。