小樽市総合博物館(手宮1)の学芸員リレー講座 第10講「小樽焼 北海道窯業史を飾った3窯」が、10月26日(日)13:30~15:00、同館2階研修室で行われた。
リレー講座は、同館の学芸員9人が、専門分野の研究を市民に発表する場。第10講は、土屋周三館長の講座となった。
「小樽で焼かれたものが小樽焼で、明治5(1872)年開窯の土馬焼(本多桂次郎・守清)、大正7(1874)年の入船焼(松原新助・陶光)、昭和10(1935)年の白勢窯の3種類となっている。
明治では、小樽で窯業することは至難の業と言われていた。良い粘土が確保することが出来ない。技術の伝承が無く、作っても、今も昔も同じでブランドには勝てなかった。
こんな中、本多桂次郎は、今の住吉町(土馬町・量徳町)に窯「楽陶園」を開いて小樽の土で土馬焼を作った。北海道で窯業した初めての人で、北海道の陶芸史の草創期を埋める。本多桂次郎の作品は、楽焼の陶器だった。北海道の土で作った北海道の焼き物を全国に普及させたい思いがあり、明治10年(1887)年の博覧会に作品を出品し、北海道で初めて賞を取った人。明治18年(1885)にも出品し、全国から好評となった。
昭和39(1906)年に没し、孫の清次郎に継承したが、昭和18(1943)年に窯を閉じた。陶芸家として生計を立てるのは難しかった。しかし、清次郎は、市内の陶器店の支配人として働き、焼き物から離れないで生きた。
大正の小樽焼は、入船焼という。明治7(1874)年に石川県の九谷焼の本場で生まれた松原新助は、新十津川の北海了谷焼陶器株式会社の技術指導のために北海道へ。その後、大正4(1915)年、札幌の製造所や伏古焼などを経て、大正7(1918)年に小樽製陶所(入船町2)の工場長になった。松原は、京都から土を運び、一流の絵師とともに良質な清水風の磁器を作り上げたが、大正8(1919)年には退社した。この間、多くの作品を作った。
昭和の小樽焼は、3代目の白勢栄一が小樽窯という名で作った白勢焼。地元の粘土と本州や自分で改良した上薬を使ったもの。様々な賞を受賞し、緑色の織部の作品が有名で、その後、油適・辰砂を完成させ、古代絵字や文字をモチーフとした作品を作った。昭和64(1989)年に77歳で没した一大陶芸家。旧東山中学校の前に今でも窯は残っているが、平成19(2007)年閉めてしまった」と解説した。関連記事
この後、3種類の現物を披露しながら、松原新助の小樽焼の花瓶についての逸話を紹介。「誰かの金婚式の祝いでもらった、大正9(1920)年に作られた花瓶が花園小学校に寄附された。花園小の校長に、ぜひ博物館に寄贈してくれと言ったが寄贈してくれなかった。せめて貸して下さいと言って、ようやく調査することが出来た。その3日後、花園小は火事になって、焼き物が残ることになった。これ以上の作品を見たことはないし、この右に出るものはないと思う。一流の絵師によるもので、逸品中の逸品」と語った。
「今、若手の作家が小樽にいて、どの若手の作品が第4の小樽焼と言われるのか、それを考えながら陶器を見ると面白い」とまとめた。
土屋館長は、25年学芸員・10年館長として博物館に勤務し、今年度で定年退職を迎える。来年3月に集大成として最後の講座を開くことにしている。