「では、話を戻しますが、さきほど冨田さんは六代将軍家宣が間部詮房(まなべあきふさ)を登用したと・・・」
「はい。彼は家宣がまだ徳川綱豊と称してた頃に、父の代から(申樂(さるがく)師(し)=猿樂師)として仕えていて、芸事が好きな家宣は将軍の就任に伴い側用人としたそうです」
「猿樂師だったのですか」
富田は新しい発見でもしたかのように言った。
「はい。徳川家康をはじめとして歴代の将軍が能を好んだため猿樂師は武家社会に大きな意味を持つようになったのでしょう」
「ふ~ん」
「そうそう、この猿楽すなわち能樂は秦氏の家伝なのですよ」
「秦氏といえば古代イスラエル=ユダヤと関係がある・・・」
「はい。能楽が今日のように形態を整えるに至ったのは能楽の大成者である世阿弥以降のことですが、その素地は遠く申樂延年の舞などの起源にまで及び、應神朝に百済より帰化した秦氏によって創世せられたということは定評あるところなのです」
「そうだったのですか」
大沢は大きくうなずいた。
「でも、どうして徳川家宣だけが一時的にしても逆さ葵の紋を使用したのでしょうか、不思議だと思いませんか?」
こずえは納得がいかないというように熱弁をふるった。
「確かにそうですね。しかし、家宣という人間はあらゆることに興味を持ち歴代の将軍の中でもずばぬけて学問に精進して知識欲も旺盛だったそうですから・・・」
「では、天海についても知っていたと・・・」
「恐らく、家宣は天海についても研究してたと思います」
「先生、それに家宣は根津神社とも深い関わりがありましたよね」
「そうだよ。この神社はどういうわけかか古代イスラエル=ユダヤとも関係が深いし・・・」
「やはり家宣も六芒星=ダビデの紋に興味があったのでしょうか?」
「そうよ、だからこそ家宣は逆さ葵の紋をつけてたのよ」
「それに・・・間部詮房は秦氏の流れをくむ猿樂師でありユダヤとの結びつきも考えられますね・・・」
大沢は自分の考えを断定的に述べた。
「私もそう思います。それと、さっき図書館で色々と考えて今回の逆さ葵の紋について私なりに結論を出してみたのです」
「えっ!・・・」
声をあげたのはのり子だった。
「それで、どのような結論なのですか?」
大沢は早く聞きたいと言わんばかりに訊ねた。
「これには、やはり間部栓房(まなべあきふさ)という人物が大きく関与していると思います」
「加納さん、間部栓房といえば六代将軍家宣の正室や側室が子供を産んでも幼くして死んでしまったため次に側室として迎えたのが身分の低い寺の僧侶の娘でした」
「はい・・・」
「お喜世といって、彼女の生んだ子供こそ七代将軍家継となるのですが・・・」
富田の意味ありげな言葉に全員が耳を傾けた。
「それで何かあるのですか?」
「つまり、この家継こそ間部栓房と、お喜世との子供ではないかという醜聞が流れたのです」
「まさか! そんなことがあるのですか」
のり子は驚いたように言った。
「その証拠に、幼名は鍋松丸と命名されたのです」
「・・・・?」
「実は間部(・)の旧姓は間鍋(・)ということこそが、それを物語っていると思いませんか」
「天海大僧正=明智光秀(・・)が秀(・)忠と家光(・)を命名したようにですね」
「そうです」
富田はさらに付け加えた―
―周りのうわさでも側用人・間部越(まなべえち)前守詮房(ぜんのかみあきふさ)=間部詮房は家継にとって父のような存在であったという。越前が出かけ戻ってくるときは迎えに出ようといって外で待っており、帰ってくると、うれしそうに抱きついたという。
他の者が遠慮して言えないことでも越前からは、きつく叱られ家継が聞き分けないときは越前が参りますと言うとおとなしくなったという。
「そうですか。それなら、ありえるかもしれませんね」
こずえは冷静な口調で応えた。
「加納さんすみません。一人でおしゃべりしてしまって」
富田は恐縮したように言った。
「いえ、どういたしまして。かえって面白い話を聞かせてもらいました」
「加納さんは間部詮房について何か話されたかったのでしょう?」
「はい。それと絵島・生島事件についてです」
「そうでしたか」
「先生、それって何ですか・・・絵島なんとか事件って?」
大沢は舌を噛(か)みそうになりながら訊ねた。
「それはだね・・・」
加納はパイプ煙草を灰皿の上にのせると語りはじめた―
―間部詮房(まなべあきふさ)は猿樂師であり芸事の好きな六代将軍家宣(いえのぶ)に側近として取り立てられ、同時に儒学者の新井白石も登用されて新しい政治が行われた。しかし、甲府時代からの重臣たちにすれば猿樂師や儒学者に政治を牛耳られた嫉妬が生まれたのです。
人々からは名君として慕われた矢先に病気となり、わずか三年で他界してしまったのです。これにより、側室のお喜世が産んだ子が四歳で七代将軍家継となり、お喜世は位もあがって月光院という名前が与えられたのです。ここで、六代将軍家宣の正室・天英院と七代将軍家継の生母である月光院との争いとなった。つまり、幕府旧派と天英院対間部詮房と月光院という二派により周囲をも巻き込んでいったのです。
事件は正徳四年二月、江戸城大奥に仕える女中の最高位にある、お年寄りであり月光院に仕えていた絵島が徳川家宣の命日である日に月光院の名代で芝の増上寺に代参し、その帰り道に歌舞伎役者の生島新五郎の芝居を見物して、誘われるままにお酒や料理のもてなしを受け、大奥へ入る門限ぎりぎりの四時を過ぎようという時間になってしまったが、月光院に仕えているという自信と、以前にも老中が大奥勤めの者が商人を御用達しに持つ事を厳禁するという通達に対して大奥の女性の反発により通達を出した老中を辞職に追い込んだこともあってか、このような行為が御法度(ごはっと)ということは分かっていてもおさえきれなかったのです。
徳川譜代の重臣たちは欲しいままに権勢をふるっている間部詮房と月光院に対して、このまま許すわけにはいかないという考えを持ち、真っ先に実行したのが公儀重役の秋元但馬守でした。彼は当時六十六歳で川越藩の藩主で反家継派でもありました。彼は胃を患って死期を感じており(どのような事が起きても私が責任をとる)という説得で幕閣の連中を団結させたのです。そして、大奥女中の絵島と歌舞伎役者の生島新五郎とのスキャンダルは江戸中の話題となり、秋元但馬守はこのことによって間部詮房と月光院そして幼い将軍に反逆する事となったのです。
絵島が兄の家にお預けとなって一ヵ月後に秋元但馬守により処分が下されたのです。絵島の兄は死罪、兄弟、子供たちは追放され、生島新五郎と絵島は遠島となり、月光院派の女中たちは着物や履物も取り上げられ不浄門の平河口から裸足で追放。その他にも、連座刑も含めて遠留、改易など長い暇をとらされた者は一五○○人以上にも及んだのです。
絵島は月光院の嘆願によって信州高遠藩の内藤方へ幽閉となり六十一歳で亡くなりました。間部詮房は八代将軍吉宗が就任するや越後へ左遷され、その地で没したのです。
加納は話し終えると消えかかったパイプ煙草に火を点(つ)けた。
「そのような事件があったんだ・・・」
大沢は腕を組みながら感慨深げに言った。
「でも、これって間部詮房や月光院に対して失脚を狙った幕閣の陰謀ですよね」
「のり子くんもそう思いますか」
「はい」
のり子の返事にみんなも小さくうなずきを見せた。
「そこでだが、歌舞伎役者の生島新五郎がいた山村座には猿樂師だった当時二十四歳の若林彦次郎という者がいて・・・」
そう言いながら加納はみんなを見回した。
「・・・・」
「この若林彦次郎と間部詮房は、いつからかは分かりませんが同じ猿楽師という縁で通じあっていたのです」
「通じあう?・・・」
「そうです。間部詮房は男色だったのです」
「男色・・・嫌だ!」
のり子は大声をあげ慌てて口を手で押さえた。
「つまり、今で言うホモっていうことですか」
富田は特に驚く様子もなく淡々と言った。
「はい。そうです」
「でも、当時は別段おかしくもなかったですからね」
「どういうことですか?富田さん」
こずえは首を傾げながら訊ねた。
「そうでしょう、昔の殿様にはお小姓がいて戦地へ赴(おもむ)く時には必ず連れて行きましたし」
「そっか! 当時としては当たり前だったんですね」
大沢はにやけながら言ってのけた。
「話を戻しますが、間部詮房との関係もあってか月光院の女中である絵島も山村座に出入りするようになったのです」
「では、反月光院派である幕閣の連中による策謀ではなかったのですか」
「彼らの策謀というより、このような事実を理由に月光院派を失脚させる口実としたのです」
「なるほどな・・・」
大沢はまた腕を組んでうなった。
「そして、この若林彦次郎には重い罪が下ったのです」
「つまり、間部詮房との関係によるためですよね」
のり子は少し暗い声でぼそりと言った。
「そう、彼は佐渡へ遠島となったのです」
「佐渡ですか・・・・」
「はい。間部詮房は自分のせいで遠島となった彼に対して嘆き悲しんでも手の打ちようがなかったのです」
「・・・・」
「しかし、八代将軍徳川吉宗の代になると彼も越後へ左遷(させん)されたのです」
加納が笑顔で言うとみんなは不思議そうに加納を見つめた。
「当時、佐渡奉行だった小浜志摩守久隆は間部詮房がまだ権勢をふるっていた頃に目をかけてやり勘定頭まで出世させてやった男なのです」
「そうか!越後と佐渡は近いしね」
大沢は喜色満面に大きな声をあげた。
「それでは、若林彦次郎さんと会えたのですか?」
こずえは大沢と対照的に心配そうに訊いた。
「はい、そこで間部詮房は愛(いと)おしさと罪滅ぼしから六代将軍家宣から賜(たまわ)った能装束を彼に渡したのです」
「分かりました!」
「えっ、のり子さん何が分かったのですか?」
大沢はハトが豆鉄砲を食らったような顔をして訊ねた。
「だって、間部詮房は家宣がお気に入りの猿楽師だったから能装束を賜ったのよ、それも葵の紋がついた」
「そうだ!」
「どうしたの? 今度はこずえちゃんが・・・」
「六代将軍家宣の葵の紋は、最初の頃には逆さ葵だったわ」
「それが、間部詮房から佐渡に流された若林彦次郎の手許へ渡ったんだね」
「そうよ、若林彦次郎はもともとが猿楽師だったから、きっと喜んだに違いないわ」
「佐渡は宝生流の能楽が盛んなところだったし、きっと彼や間部詮房にとっても良かったのかもしれないな」
「先生、どうして佐渡は宝生流が盛んなのですか?他にも色々な流派がありますけど」
のり子は疑問を投げかけた。
「確かにそうです。観世流は家康が喜多流は秀忠が、そして宝生流は綱吉が愛好しましたので養嗣子となった家宣も宝生流を受け継いだのではないでしょうか」
「もうひとつ・・・いいですか」
「はい」
「この度(たび)、小樽の能楽堂で見つかった逆さ葵の能装束は当時の物だということですか?」
「う~ん、それは詳しく調べてみないと分かりませんが、もともと能装束の紋は寄進した人がある程度自由に作っていたようです」
「それでは、若林彦次郎の子や孫たちに、さっきの経緯(いきさつ)が語りつがれると同時に能装束を新たに作るときは必ず逆さ葵の紋をつけたのかもしれませんね。そして、それが岡崎謙さんによって小樽にもたらされたと・・・・」
「そうかもしれません・・・」
そういうと加納はパイプ煙草の煙を静かに吐き出すと、ゆっくり広がっていく紫煙を見つめながら間部詮房と若林彦次郎のことが脳裏を掠(かす)めたとき《松風》のシテの一途(いちず)なまでの恋と狂乱が浮かびあがった。そして遠い過去へ思いを馳(は)せながら佐渡へ流謫(るたく)された世阿弥が書き残した風姿花(ふうしか)伝書(でんしょ)のくだりをゆっくりと口ずさんだ―
―秘すれば花 秘せずは花なるべからず・・・
徳川家紋「逆さ葵の謎」 8
おわり