奥沢墓地で『多喜二』墓前祭!

 多喜二への思いを切々とうたった母セキの詩句がある。「あー またこの二月がきた ほんとうにこの二月という月はいやな月 こえをいっぱいになきたい どこへいてもなかれない あー ラジオですこしたすかる あー なみだがでる あー めがねがくもる」

 「蟹工船」「不在地主」などで知られるプロレタリア作家、小林多喜二(1903.10.13〜1933.2.20)は、特高警察の拷問により、29歳の若さで非業の死をとげた。多喜二の命日の20日(木)、墓前祭が、奥沢墓地(奥沢5-3)で午後1時半から行われた。今年は、多喜二の没後70年、生誕100年にあたる。

 多喜二が眠る小林家の墓は、 昭和5年6月2日に建立された。この墓は多喜二が27歳の時、亡き父のために、作品の印税を母セキに送って、建てられたものだ。

 多喜二祭は、多喜二の生まれ故郷の秋田県で、1962年から行われ、小樽では1988年から行われているもの。現在は、日本各地20ヶ所ほどで、多喜二祭が行われている。

 奥沢墓地は、冬の間雪に埋もれている。多喜二の墓は、丘の一番上の方にある。墓前までの道は、市内や余市の高校生や、商大生ら有志40名ほどが、雪を踏み固めたものだ。

 墓前に捧げる赤いカーネーションは、120本用意された。訪れた人に一本一本手渡されたが、今日は120本の花では足りなかった。

 「戦前の暗黒時代に、治安維持法下の暴圧にひるまず、 虐げられた人々の解放と反戦・平和のために、不屈にたたかい、拷問死した多喜二。世界の情勢が緊迫する中で、彼の文学と生涯をあらためて振り返り、学ぶことが大切 です。」という、寺井勝夫多喜二祭実行委員長の挨拶で始まり、来賓の挨拶の後、墓前に赤いカーネーションが一本ずつ捧げられた。

 墓前祭では終始、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の2楽章が流されていた。この曲は、多喜二が日比谷公会堂で、最後に聞いた音楽だといわれている。