末岡睦氏90年の記憶を語る! 商大ゆめぽーとライブ


 小樽商科大学附属図書館が主催する,、市民・学生向けの講演会「ゆめぽーとライブ」の第19弾「戦前・戦中・戦後~90年の記憶 居酒屋を文学資料館に」と題して、特別講演会が実施された。
 居酒屋「すえおか」の女将だった末岡睦氏を講師に招き、10月29日(木)17:30〜19:00、同館(緑3)2階閲覧室(教育情報発信・地域連携スペース)で開かれ、学生や市民をはじめ、学長や副学長、教職員合わせて約60名が参加した。
yumeportlive.jpg 同講演会は、2007(平成19)年から小樽商大駅前ブラザ(旧小樽グリーンホテル別館2階)「ゆめぽーと」で、同大学名誉教授が講師となり、年2〜3回開催。2014(平成26)年3月に、利用状況や維持費を考え「ゆめぽーと」を廃止し、その後、開催場所を同館図書館内に移し継続している。
 末岡氏は、小樽潮見台に生まれ、花園小学校へ通い、寄り道大好きな好奇心旺盛な子どもだった。津田塾大学で英語を学び、学校閉鎖で休学。その後、石炭の船積みの厳しい仕事に就く。昭和42年から平成24年まで、居酒屋「すえおか」の女将を務め、小樽の政財界の有力者や井上ひさし氏、倉本聡氏なども訪れている。
 また、日本山岳会や小樽山岳会に所属し、ヒマラヤ・アラスカ・スイスなどの世界中の山々に登頂経験を持ち、2年前から居酒屋を、小林多喜二・伊藤整らの文学者達の資料を展示する「文学資料館・地獄坂」とし、その館主を務めている。
 講演会では、90年の人生を振り返り、戦前・戦中・戦後の小樽の様子や、歴史、文化人との交流、運河論争を客観的に見つめ、幅広い分野の話をエピソードを交えて語った。
 「小樽の始まりは、手宮を中心とした千人足らずの村落で、漁業を主とし手宮を小樽港と称し、北前船に乗り、越後方面から裸一貫で、小樽で一旗挙げようと集まった。鉄道の開通とともに、石炭が小樽に集まり、漁業の町が石炭の町と変化を遂げた。小樽と横浜の物流航路が開通し、近代的な豊かな町に成長。小樽には船が沢山入港し、汽笛の音で目覚め、船の音が常に聞こえていた」と当時の賑やかな様子を振り返る。
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 「小樽港の整備が進み、防波堤を完成させ、第1次世界大戦でオランダの食料不足に対応するために、十勝の豆を保存する倉庫を作り、倉庫群の景観ができた。
 人口も10万人となり、日露戦争の影響を受け、樺太に食料を送る問屋ができ、新潟から米が入り、北の誉をはじめとする10社以上の酒造ができた。
 幼少時代の思い出では、花園小学校へ通い、道草を楽しんだ。小学6年生で受験となったため、小学生の頃が一番勉強した。女学校へ入った頃から、天皇陛下を中心とした軍国主義に仕立て上げられた。
 戦争が始まり、大変な状況となり、B29の話や疎開の話を聞き、1年間だけ大学で授業を受けた。この時代の女性はどこの大学でも行くことができなかった。商大や早稲田も、女子を受け入れる体制はなかった。女性は花嫁修行が主で、良妻賢母を育てるための校訓『真面目・親切・淑やか・質素』。今では死語だ」と笑いを誘った。
 「東京から小樽へ戻り、語学力が買われ船の仕事をした。大学ノートで船の特徴を記し覚え、仕事をこなした。学生の頃は、25歳まで生きられるといいねと友と語り合った。戦死した男性も多いため生涯独身の女友達も多く、戦争の影響を受けていた」と、当時に思いを馳せた。
 「北海道最後と言われる銘木をもらい、建材にして料亭を作ろうと声がかかり、2年間乾燥させ、施工・設計し、『すえおか』が完成。ひとりで作った店ではないため、屋根を改装し、調理場に手を入れ、みんなの溜まり場となるよう、居酒屋を文学資料館にした」と経緯を語った。
 戦前から今日までを、正確に詳しい内容で語り、予定時間を延長して、来場者からの質問に答えていた。小樽山岳会に所属する男性は、「聞いてみたかった裏話を聞くことができ、とても面白かった」と満足した様子で会場を後にした。
 ゆめぽーとライブ開催のお知らせ
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