聾教育の先駆者を紹介 運河館ギャラリートーク


ungagallery2.jpg 小樽市総合博物館運河館(色内2)では、小さな企画展「聾教育と小林運平」を、4月5日(土)から5月31日(土)まで開催している。
 それに合わせ、6日(日)11:00から、「小林運平をご存知ですか?」と題して、運河館ギャラリートークが開かれた。講師は、同館石川直章副館長が務め、冬が逆戻りしたような悪天候の中、興味を持つ市民ら10名が集まった。
 小林運平が、明治39年に創立した北海道小樽聾学校は、今年(2014)3月末をもって、107年の歴史に幕を閉じた。それにより、同館に寄贈された貴重な資料と同館所蔵の関連資料を合わせた9点を展示する企画展の開催となった。
 市民にはあまり知られていない、小樽の歴史が生んだ同聾学校創設者の小林運平について、小樽の歴史として伝えていく必要があると、スポットを当てた。
 小林運平は、1865年秋田県大館市に生まれ、秋田師範学校へ入学。その後17歳で教員となり、25歳で結婚。31歳で姉を頼り三笠へ。当時教員不足だった北海道へ渡る。毎年のように移動し、量徳小学校・寿都・雨龍などでの教員を経て、再び量徳小学校に戻る。
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 当時の小樽は、内地(本州)から移り住む人が多く、活発の中にも治安の良くない町だった。就学環境は悪く、学校へ行かない子どもが多い中、明治36年、3人の聾唖者の担任となり、これが聾教育のはじまりとなる。
 手探り状態で始めた教育が、1年後には、教育会で聾唖のひとりには仮名を読ませ、ひとりには話をさせ、歌を歌わせるなどの成果を出し手応えをつかんだ。聾唖者が全道から入学を希望して集まり、聾教育には欠かせない人物となっていく。自宅で子ども達を引き取った。住吉神社前付近に小樽聾唖学校を建て、量徳小学校の教員と兼務した。量徳小学校の学校日誌の中で、小林氏のことが記され、東京で講習し、聾教育の発音や声の出し方を勉強してきた。それを明治39年に報告している。
 今回、展示中の資料新寄贈品「言語機動作要説」は、明治21年の「和英発音原理」が原本となり、それを直筆してテキストとして残し、「発音図解」は模写したもので、この頃に残したものと思われる。なまりのある小林氏は、発音矯正を受けていて、北東北地方では「イ」や「エ」の間に音があることを書き足している。
 聾学校ができ10年後には、小樽を代表する施設となり、明治44年には、皇太子(大正天皇)が小樽商大の視察と合わせ、同施設も視察された。明治45年には、耳の聞こえない子が講談したり、言葉を通じて学習した。
 15年を経て、聾唖教育の成果を出し、卒業生の中には、小樽焼きの模様画を描くなどの職人となる者もいた。当時、小樽と函館にしか聾学校がなく、全道各地から入学を交渉しに来ていた。
 大正5年に小林氏は死去。設立当初から寄附が財源であり、かなりの経営難の中、小樽での聾教育に全力を注いだ小林氏の生涯に、聴講者は感動していた。
 市内40代の女性は、「ろうあ協会で手話を学び6年になる。昨年、聾教育の歴史を辿るバスツアーがあり、聾学校の建物跡地を巡り、沢山の人が参加した。都合がつかず参加できなかったので、今回の話を聞きに来た。小樽の聾学校が閉鎖され、普通の生徒と学び合うことが理想だと思う」と話した。
 聾教育と小林運平 4月5日(土)〜5月31日(金)
 小樽総合博物館運河館(色内2)第1展示室・問合せ0134-22-1258
 入館料:冬期一般300円、高校生・市内在住70歳以上150円、中学生以下無料。
       一般400円、高校生・市内在住70歳以上200円、中学生以下無料。
 北海道小樽聾学校HP