総合博物館メルマガ143号 「☆小樽鮨異聞」 (2011/07/05)

 小樽市総合博物館のメールマガジンに、毎号掲載されている学芸員のコラムは、その専門性を生かした読み物となっており、メルマガ購読者に好評だ。

 6月24日に配信された143号には、同館の学芸員・石川直章副館長の小樽での握りずしの登場を考えた「☆小樽鮨異聞」が掲載された。

 「明治36年3月に稲穂小学校校長として来樽した稲垣益穂の日記に登場する「すし」に該当する言葉(「すし」「酢子」「寿し」「鮨子」の4種)を小樽着任の明治36年3月からの第9巻から大正14年の第39巻にいたるまでの全文から76件の表記を抽出してみました」と、丹念な作業で、小樽での握りずしの登場を述べている。

 市内に130軒を超える寿司屋を有し、寿司の街・小樽として知られている市民にとって、一読したいコラムとなっている。(転載許可済)

☆小樽鮨異聞

東日本大震災から3ヶ月が過ぎ、復興・復旧への取り組みが続いていますが、小樽でも様々な影響が出ています。3月後半、4月の観光客減少は当館も直撃し、大幅な入館者減となりました。反面、5月後半からの修学旅行の来館校の中に従来なかった地域の学校が散見されるようになっています。東北地方からの変更があったようで、素直には喜べない入館者の増加です。

さて、観光地小樽の3点セットと長く言われてきたのが「運河、ガラス、すし」です。現在、130軒をこえるすし屋が市内に点在しています。この小樽とすしについて、先月ミュージアムラウンジでお話をさせてもらいました。今回は、この発表のときに、準備に時間がかかった割には詳しくお話できなかった、「稲垣日誌」に登場するすしの表記と内容から、小樽での握りずしの登場を考えてみたいと思います。

小樽が村並みとなった幕末、江戸ではすでに現在の握りずしとほぼ同じ形状のすしが広く流通していました。明治初期の小樽内を描いた地図には料亭が描かれ、すしが出されていたことも考えられますが、当時の小樽は上方文化圏の末端に位置していましたので、押し寿司または棒寿司のようなものではなかったと思われます。

また、昨年ご紹介した明治35年前後の市街地の写真に、オコバチ川沿いの料亭に「寿し」の暖簾がかかっていることが確認され、博物館所蔵史料としては確実に小樽にすしが存在した最古の例となっています。フリーライターの渡辺真吾氏の労作『小樽歴史年表』にもすしについての記述がなく、小樽新聞を丹念に研究されている渡辺氏の手元にはもっと古い例があるかもしれません。

さて、明治36年3月に稲穂小学校校長として来樽した稲垣益穂の日記に登場する「すし」に該当する言葉(「すし」「酢子」「寿し」「鮨子」の4種)を小樽着任の明治36年3月からの第9巻から大正14年の第39巻にいたるまでの全文から76件の表記を抽出してみました。未校正の原稿や見落としなどがあるかと思いますが、全体の傾向をうかがうには十分なデータといえるでしょう。

初出は明治37年10月23日(第10巻)、金沢植物園の開園式での屋台の記述です。「広き園内に酢子屋あり、ビヤホールあり、おでんかん酒屋あり、そばやあり」とあり、握りの屋台とも考えられますが、箱寿司などの上方系の押し寿司であった可能性もあります。

稲垣益穂もその妻も高知県出身で、明治期の高知の家庭料理の中では押しずし系の棒寿司が頻繁に作られていました。ただし、明治25年高知県尋常中学校女子部卒業生編集による『割烹授業日誌』をみると、魚肉の朧(おぼろ)を使った握りが紹介され、現在の「生にぎり」ではないものの、速成の握りずしは高知でも調理されていたこともうかがえます。

ただし、実際の稲垣日誌の内容を見ていくと、やはり棒寿司の形状のすしが稲垣家では「すし」であったことが推測されます。たとえば明治38年11月17日(第11巻)には「同氏はガサ蝦と鰊の姿酢子とを持って来て贈られた。」、明治39年4月10日(第12巻)では「今日妻は鰊を調理して姿酢子をこしらへた。存外美味である。」などと記されています。プロの職人ではなく、自家製のすしと明確にわかるもので17例あり、基本的に大正時代半ばまで(稲垣夫妻の年齢が要因となっている可能性もある)は、握り以外の、押しずしや飯鮨が「すし」として認識されていたようです。

一方で、明確に握りとわかるものは大正8年8月3日(第28巻)「本日ハ握リ立ノ酢子ヲ食シテ始メテ真味ヲ味ハフヲ得、頗ル美味ヲ覚エタリ。」の記述です。これは花園にあった「蛇の目寿司」店内の記述で、蛇の目そのものは明治45年4月2日に登場しています。明治41年発行の『小樽案内』に蛇の目の広告があり、「東京浅草蛇の目寿し支店」と記されていることから、蛇の目は明らかに東京風の握りを提供していたことがうかがえます。

蛇の目の創業は明治40年ころといわれており、10年ほど前に市内の寿司店で聞き書きでの、老舗の創業が大正初期から半ばといわれた結果とあわせ、明治末ころから市内で握りが盛んになって言ったのではないかと思われます。稲垣日誌には蛇の目の記載が14例、その他のすし屋として加賀屋、美鳥(登利)、常盤楼が登場します。このうち加賀屋は大正7年発行の『小樽営業便覧』の中に広告を確認できました。

この稲垣日誌の統計作業は、当初、握りや押しずしなどすしの形態によって表記が異なるのではないか、それによって小樽で握りが主流となっていく時期が明らかになるのではないか、と考えて始めたのですがうまく結果は出ませんでした。稲垣先生は大正末まで、どの形態のすしに対しても「酢子」と表記しています。

ミュージアムラウンジでもお話したように、本来の発酵食品としてのすしと、生鮮な魚を扱う握りとは形状、味覚とも大きく異なります。しかし、稲垣先生の表記からは、そのような違いを見ることが出来ません。案外、このことにこだわっているのは私どもだけなのかも知れません。

 (副館長・学芸員 石川直章)

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