☆名にしおば いざ踏みゆかん奥沢の 小樽峠の錦の秋を (2009/10/23)

 小樽市総合博物館メルマガ123号より

 同館の石川直章学芸員が、「小樽の皆さん、『小樽峠』をご存知ですか」と、小樽市史には一度も登場していない小樽の名前がついた「小樽峠」の由来を興味深く綴っている。

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 小樽の皆さん、「小樽峠」をご存知ですか。勝納川をさかのぼり、奥沢水源地を横に見ながらさらに奥に進むと、かつて小樽の名勝のひとつであった「穴滝」があります。小樽峠は、そこからさらに山を登り、市街地からみえる稜線上に存在します。この峠を越えると赤井川村の常盤ダムにぬけることができます。

 この小樽峠がいつから使用されていたかは定かではありません。『赤井川村史』によれば、明治27(1894)年の土地払い下げ以前の、明治21(1888)年、新潟県出身の長谷川某という人物が奥沢村から道をたどり現在の赤井川市街地近くに入植していますので、このときすでに小樽峠が使われていたと見るべきでしょう。これ以前、和人がこの地に入る前、アイヌの人々が太平洋側から小樽周辺に抜ける道として使われていた可能性は高いと思われますが、資料的な裏付けを見つけることはできません。赤井川村の常盤ダムがある川は「小樽川」であることなど、少なくとも明治以降和人が赤井川に入った頃から「小樽への道」として、余市川―小樽川―小樽峠―勝納川というルートが意識されていたのだと思います。

 この小樽峠は明治28年の陸地測量部による地形図には名前が見えません。小樽川周辺の支流名が「青木沢」「豆腐屋沢」などアイヌ語由来ではない、和人入植後のものがほとんどであることなど、利用が増大するのは明治30年代後半からではないかと思われます。そのきっかけが、いわゆる「軍事道路」です。「軍事道路」は昨年、当館のボランティアの皆さんが調査、発表した潮見台―銭函間の道路を思い出される方も多いかと思います。小樽峠の場合も、それとおなじ日露戦争が原因となっています。

 大江村上山道(現在の仁木町大江、稲穂峠のふもと)から赤井川都を経由する現在の道々1022号が、余市、塩谷の海岸線を走る道の待避線として計画され、小樽への経路は小樽峠をこえるものとなります。大正7年発行の地形図には「小樽峠」の名称と道路、しかも「達路」(国道、県道につぐランクの道路)として表記されています。赤井川村東側に入植した人々にとって、当時「大都会」であった小樽に近い、という点が入植地選択の大きな決め手であったといわれ、夏だけではなく、冬もスキーを履いて買出し、収穫物の運搬、病人の搬送など小樽峠を利用していました。

 さらに昭和初期、小樽峠東側の松倉岩付近で「松倉鉱山」が創業されるとこの峠道の利用はさらに頻繁なものになります。小樽市内からみると天狗山と毛無山をむすぶ尾根上に、ちいさなウサギの耳のような岩が見えます。これが松倉岩なのですが、昭和7年に金、銀などを目的に採掘がされます。しかし、ここに硫酸バリウムの結晶である重晶石が多量に存在することがわかり、大阪の大手化学メーカーであった堺化学工業が昭和10年から本格的に操業します。戦前は潜望鏡などの兵器用光学レンズに配合する炭酸バリウムの原料として、国家的な要請のもと採掘が行われました。戦後も化学製品だけでなく医薬品の材料としてバリウム需要があり、その需要をまかなっていました。

 もっとも松倉鉱山で採掘された重晶石は小樽峠を運ばれたわけではなく、天神町の元の焼却場のあたりの工場まで、山中を架空索道(リフト)で運ばれていました。大きな鉄塔がいくつも勝納川の源流付近に立ち並び、上空を鉱石を満載したゴンドラが通過していく風景は、現在の静かな住宅地天神町からはまったく想像ができません。写真もほとんど残っていないため、小樽の歴史の中では空白の部分です。このように小樽峠が利用されていたこともあり、途中の穴滝が小樽の観光名所のひとつになっていたのかもしれません。

 実はこのコラムは「発見ツアーズ 小樽峠を行く」の当日に作成しています。本来であれば、紅葉のさかり、錦秋の小樽峠の様子をご報告するはずだったのですが、雨天中止となりました。松倉岩が市内各所から見ることができる、ということから松倉岩からの眺望は筆舌に尽くしがたいものがあるはずです。残念ながら何回かの下見で、松倉岩、松倉鉱山への道は笹薮が密集し、途中で断念しました。ただ、小樽峠周辺からの市内の眺望はすばらしく、ことに先々週の下見では紅葉のはしりでしたが、青い空、青い海、色づく山に抱かれた市街地を一望することができました。

 「小樽峠を行く」は3年越しの企画です。「小樽」の名前がついた峠でありながら、『小樽市史』には一行も登場しません。そのことが気になり、現地踏査を皆さんと行う、という企画を立てました。ほとんど人が通らなくなってもう50年くらいたち「荒れている」という話であったため、確認をするまで企画の実行ができませんでした。

 実際は、林道が整備され、峠まで2時間、峠から常盤ダムまで2時間半で踏破できました。昭和初期にここが利用されていたときも同様の所要時間であったと思われます。当時の感覚では、「わずか4時間で小樽に行ける」という感じだったのでしょうか。それを証明するかのように、『赤井川村史』には小樽峠の記述が何ヶ所かあります。この峠の名前は、小樽の人々ではなく、小樽に憧れ、小樽に頼っていた、峠の向こう側に人々の思いがこめられている名前ではないでしょうか。

 小樽峠の歌、というものも見つけました。ちなみに曲は「秋田おはら節」だそうです。
「頃は六月末のかた 小樽奥沢あとにみて
 幾十万の国たみが 命と頼む水源地
 のぼり登りて見晴らしの
 右に見えるは天狗山 左にそびえる余市岳
 緑いろ濃く 水清く 路の難所は青獅子で
 安達牧場につきぬけり」
(『赤井川村史』より)

 昭和初期には、架空索道で小樽から糞尿(下肥)を運ぶ、という計画がでたり、弾丸列車を倶知安から走らせる、という運動が起きたりします。また、現在、小樽市民が利用している水の一部はこの峠の下のトンネルをとおって天神町に運ばれています。

 小樽峠は、「小樽赤井川線機械化道路」の昭和26(1951)年の開通(後昭和571972)年国道393号と改称)によりその役目が終わります。しかし、赤井川の人々がどのような思いでこの峠を越えたのか、そして奥沢の町並みが眼に入ったときの感慨はいかばかりであったか、静かな山の中で思いをめぐらすことも一興かと思います。小樽峠踏査は来年再チャレンジをします。ご期待ください。

 ちなみに先日地図を眺めていたら「銭函峠」というものを見つけてしまいました。こちらも一度行ってみたいという思いが日々募っていますが、ここはクマの通り道らしいのでちょっと逡巡しています。天気のいい日にたずねてみたい場所はまだまだたくさん小樽にはあります。

(学芸員 石川直章)転載許可済

 小樽市総合博物館

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