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徳川家紋「逆さ葵の謎」解き 作品をネット公開


 小樽市能楽堂(市公会堂内・花園5)の衣裳部屋から見つかった、逆さまの葵紋(徳川家紋)が入った能装束の謎を解く物語「逆さ葵の謎」を、10月8日(水)から8回にわたって、ネット上で公開する。
 これは、逆さ葵の謎解きの物語を公募していた市民会館に、小樽ジャーナルの記事を見て応募して、最優秀作品に選ばれた入船町・山根靖弘さんの作品。
 物語は、行政書士事務所の女性スタッフが、小樽ジャーナルの記事を見たことがきっかけとなり、職員で逆さ葵の謎解きに挑戦する作品。
 この作品を、10月8日(水)から8回にわたって、ネット公開する。 逆さ葵の謎の解明に、乞うご期待。
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――逆さ葵の謎――

 小樽―後志支庁北部、日本海沿岸に位置し歴史の中でも天然の良港を軸として古くから海運業はもとより、商業都市としても栄え日本銀行をはじめとして歴史的建造物が数多く建てられ北のウォール街と呼ばれた時期もあり当時のままのエキゾチックな佇(たたず)まいと面影を現在(いま)でも見ることができる。また、文化の街としても伊藤整や小林多喜二などの作家や三方を山に囲まれ『坂の街』と云われるように起伏に富んだ地形は絵のモチーフにもなり、中村善策や工藤三郎といった著名な画家を数多く輩出した。
 商港として賑(にぎ)わったころに活躍した運河は、今も歴史とロマン漂う小樽の街のシンボルとして見事によみがえり日本各地はもちろんのこと海外からもたくさんの観光客が訪れている。運河の西側には石造りの倉庫が立ち並び、当時をしのぶことができる。
§

 「暑い! 暑い! 今日はいったいどうなってんだろうな」
 加納行政書士事務所と書かれたドアを開けるなり所員の大沢裕二はわめきちらし冷蔵庫からコーラを取り出すと、のどを鳴らしながら飲みほした。
 「まあ、大沢くんたらコップに入れて飲みなさいよ。まったく下品なんだから」
 大沢より五歳上の吉井のり子は見かねたように言った。
 「そういったって、もう喉(のど)がカラカラになって・・・言うならば緊急(きんきゅう)避難(ひなん)ってとこかな」
 「なんでも法律用語を使えばいいってもんじゃないのよ」
 「のり子さん、怒らない怒らない! 部屋の中がますます暑くなりますよ」
 「フンだ!」
 のり子は大沢から大袈裟な仕草で顔をそむけるとデスクにつくなり書類をまとめ始めた。その一部始終を見ていた所長の加納は微笑みながらパイプ煙草(たばこ)に火を点(つ)けた。
 「それにしても、こずえちゃんは真剣に何見てるの?」
 周りの騒がしさに目もくれずパソコンの画面にくぎづけになっている彼女に気づくと大沢は不思議そうに訊(き)いた。
 「何か面白いものでも見つけたの?」
 のり子もそう言いながら、こずえのデスクへ目を向けた。
 「ええ、小樽ジャーナルの記事を見ていたら・・・」
 「うん・・・どうしたって?」
 大沢も思わず声高になり駆け寄った。
 「ここ、これよ」
 「ええ~と、逆(さか)さ葵(あおい)の謎を解いて!」
 「これって、どういう事なの? こずえちゃん」
 「つまり、小樽にある能楽堂(のうがくどう)の衣装部屋から逆さまの葵紋がはいった能(のう)装束(しょうぞく)が見つかったというわけなのよ」
 「ふ~ん」
 大沢は意味がよく分からず首をかしげていると、のり子がすかさず口をはさんだ―
 「葵の紋といえば徳川家の家紋よね?」
 「そうです」
 「じゃあ。あれ、あれかい」
 「大沢くん落ち着きなさいよ、あれ、あれじゃ分からないわ」
 「あれさ・・・よく水戸黄門で格さんが、この紋どころが目にはいらぬか、と言って印籠(いんろう)を出すやつさ」
 大沢は大げさな仕草で真似をした。
 「そうよ、その印籠についている葵の紋のことよ」
 「それで逆さ葵ということは?・・・」
 「一般的には三つ葉葵のことで葵巴(あおいともえ)ともいってハートのような紋が上に一つと、下の左右に二つ描かれているのです」
 所長の加納も興味を持ったのか、いつの間にか、みんなの後ろに立っていた。
 「先生、それで逆さ葵というのは?」
 「このハートのような紋が上の左右に二つと、下に一つ描かれているんだよ」
 「それで逆さ葵なんだ」
 今度は大沢も納得したようにうなずいた。
 「でも、どうして逆さにしたんでしょうね?」
 「大沢くん、だからその謎を解いてとあるでしょう」
 「そうか、そうだよな」
 「それで、先生は分かりますかこの謎が?」
 「いや分からんな」
 「でも、先生はこういうの好きですよね。歴史の裏を読み解くとか・・・」
 「ハハハ、そうだな」
 加納はこずえに言われて苦笑いをした。
 「じゃあ、みんなでこの謎に挑戦してみない?」
 のり子は目を輝かせながら三人を交互に見た。   
 「この謎を解いたら賞金が出るの?」
 「いや~ね! 大沢くんはすぐに金なんだから」
 「だって、やるからには報酬がないと・・・」
 「なに言ってんのよ。これは歴史の謎を解くという、つまりはロマンよ」
 「ロマン・・・か」
 「大沢くんはこの話に乗るの、それとも降りるの、どっちなの?」
 「怖いな、乗りますよ」
 大沢は上目づかいでのり子の顔を見ながら応(こた)えた。
 「よし、この謎を解いたら私がみんなに美味しい寿司でもごちそうしよう」
 「えっ、本当ですか先生!」
 三人は途端に目を大きく見開くと加納の顔をまじまじと見た。
 「ただし、仕事はちゃんとやっての話だよ」
 「もちろんです、仕事はきっちりやりますよ」
 「まあ、途端に元気になりましたね大沢くん」
 「そりゃあ、そうですよ」           
 「それでは、さっそく資料を集めなくては」
 こずえは事務所で最年少ながら冷静に言った。
 「そうね」
 「それじゃあ僕は、これから市役所に川野さんの許可申請書を出してくるので帰りにでも能楽堂へ寄ってきます」
 「能楽堂といえば市役所のすぐ側(そば)よね」
 「うん、何か資料となるものでもあれば持ってくるよ」
 「さっそく行動開始ときたな」
 加納は笑いながら大沢の後姿を見送った。
 「さてと、私たちはパソコンで葵の紋でも検索してみようか」
 のり子はこずえの方をチラッと見ながらパソコンのキーを叩き数分して声をあげた―
 「へえ~ そうなんだ・・・」
 「どうしたの? のり子さん」
 「水戸黄門さまの紋って実は将軍家の紋そのものではないんですって」
 「それは、どういうことですか?」
 こずえは腑(ふ)に落ちないのか問いただした。
 「つまり、一般的には水戸をはじめとする尾張・紀州の御三家と田安・一橋・清水の御三郷だけが三つ葉葵の紋を用いることができたんだって」
 「それなら水戸家でもやはり葵の紋を用いていたんでしょう?」
 「そうよ。だけど少し違うみたいよ、パソコンの画面を見て。分かる?」
 「う~ん・・・同じようだけど」
 「それはね、御三家のほうが葉脈(ようみゃく)の模様が多いんだよ」
 加納はたまりかねたように二人の会話に口をはさんだ。
 「そう言われてみれば少し違いますね」
 こずえは頷(うなず)きながら言った。
 「でも、どうしてなのかしら?」
 「つまり、ひとくちに葵の紋といっても色々なデザインがあるんだが徳川家康の代になって三つ葉左葵巴 (ひだりあおいともえ)の紋を徳川家の紋として使ったそうだ」
 ―加納の話によれば― 
 
 そもそも徳川家康が使用した葵の紋は二代将軍秀忠、三代将軍の家光も同じ図柄を使用しており、葵の紋の葉脈が33あるものが正統であると幕府の書き上げた《御紋控書》に記されている。家康・秀忠・家光と初代家康から三人の将軍のシンボルともなり徳川幕府の基礎を確立した徳川家三代の結束と絆の強さを表わしていた。
 葵の紋とは―発祥の由来として愛知県宝飯郡小坂井駅から2キロほど行ったところに伊那城跡があり、ここに《葵の紋発祥の由来》という碑と共に説明板がある。
 そこには、徳川家康の祖父・松平清康は享禄二年(一五二九)吉田城を攻めた。その時に伊那城主、本多正忠は松平軍に従って戦い吉田城を落とすと清康を伊那城に迎えて祝宴を開いた。この祝宴に本多正忠は城下の花ヶ池にあった水葵の葉を敷いて酒肴を出したところ清康は大変に喜び〔立葵は正忠の家の紋なりこの度の戦いに正忠、最初に御方に参りて勝軍しつ吉例也賜らんと仰せありて、これより御家紋となされたり〕‐藩翰譜・新井白石編‐これを裏付けるように岡崎市の隋念寺には清康の肖像画(岡崎市指定文化財)には立葵の紋が描かれている。このように、本多家から松平家の家紋となったと伝えられている。このように小坂井町が葵の紋発祥ゆかりの地といわれる所以である。―平成九年三月三十日 小坂井町教育委員会・伊那史跡保存会―
 こうして伊那本多家の家紋は立葵の紋で(フタバアオイ)という植物を家紋にしたもので、これは京都の賀茂神社の神紋とされているが、本多家の先祖である中務光秀が賀茂神社の神職であったことから本多家の家紋にした。そして、古くから松平家(徳川家の先祖)も賀茂神社の氏子で深く信仰し葵の紋を使っていたとも伝えられている。
 「そうなのですか・・・」
 のり子は感心したように声をあげると、こずえも大きくうなずいた。
 「ところが家光以降は少しづつではあるがデザインを変化させているのです」
 「どうしてですか? 先生」
 「つまり、家康公から秀忠、家光の三人を崇める気持から自ら別のデザインにしたものと思われるのです」
 「葵の紋というのは、すごいものだったのですね」
 「そうだよ。葵の紋は天皇の紋章である菊・桐をしのいで絶大な権威の象徴とされていましたから」
 「・・・・」
 「だから当時は葵の紋を勝手に自分の着物に縫いつけた山名左門という浪人が役人に見つかって死刑になったのです」
 「ふ~ん、そうなのですか」
 「それで、幕府は明和五年(一七六八)に法令を発布して葵の紋の使用を禁じたのです」

つづく